レーナの桃の木
前回の妄想ストーリーは長すぎました。あんまり長いのはブログという媒体に合いませんね。ということで、今後は長いやつは羊皮紙に血で書き留めておき、ブログではコラム風短文に専念することにしました。とはいえ今回も原稿用紙六枚半くらいになってしまいましたが……。
今回のテーマはナーグリングです。腐敗の神ナーグルの小悪魔ですね。薄皮一枚の下に汚穢の詰まったヘドラのような大悪魔グレート・アンクリーン・ワンの腹からぽろぽろと出てくるやつらです。大悪魔の母のように慕うさまがなんとも可愛らしい。湿度の高いこの夏にはナーグルに注目してさらに不快さを高めるのも一興かと。
今回のストーリーは、車谷長吉氏の『愚か者』で読んだ短文をかなりパクリました。美しい文章の底に人間の醜さが感じられて、混沌の領域はこんなところにもあるのだなと感心させられます。
ということで、もとよりこれは【狂気点】の産物。オフィシャルの設定とはなんの関係もない愚か者の妄想ですので、どうかひらにスルーをお願いいたします。
○レーナの桃の木
その峠には一本の桃の木がはえている。毎年夏には枝もたわわに実をつけて旅人の渇きを癒してきた。すでに古木となりながらも樹勢はいっこうに衰えをみせず、いまでも夏には大ぶりな実を枝いっぱいにつける。しかし峠はすっかり寂れ、かつてひとりの女が半生をおくった小屋は朽ち果てたままだ。もはや桃の実を手にとる者はなく、夏の終わりには草むらに落ちた実が峠に腐臭をただよわせる。
その桃の木こそが、レーナという女が生きた証なのだ。
レーナは深窓の令嬢という言葉にふさわしい物静かな乙女だった。領主の城館でひらかれる夜会に着飾ってやってくる娘たちといえば鴉と鶯の二枚舌をもつ食わせ者ばかりで、男たちの前では手鏡で訓練したとびきりの笑顔をふりまいて鶯の声でさえずるものだが、いざ女だけでかたまるとなれば、鴉の声で男たちの品評をはじめるものだ。レーナはそんな娘たちの輪から一歩退いて物もいわずに微笑を湛えているような奥手の乙女だった。両親には娘の引っ込み思案さが何より気がかりで、嫁のもらい手があるのかと心配ばかりしていた。
レーナには腹の据わった一面もあった。ある晩餐会の席でのこと。長テーブルの大皿でレモンとオリーブに縁取られたライク鱒の口から長蟲がにょろにょろと這い出してきたことがあった。誰もが顔面蒼白になって腰を引いたところに、レーナだけは顔色も変えずに長蟲をつかんで尻尾の先まで引っ張り出し、殺すのは不憫だからとそのまま外の小川まで出て放してやったのだ。レーナの意外な一面は語りぐさになった。
やがてレーナにも幸せが訪れる。その人柄を見込まれてか、領主の嫡男から求婚されたのだ。純白の花嫁衣装に身をつつんだレーナは、同じ年頃の娘たちからの嫉妬と羨望のまなざしを総身に浴びながら、男爵夫人という将来像にむかってバージンロードを歩んだ。
レーナの幸せは長くはつづかなかった。彼女は子宝に恵まれず、七年後に追い出されたのだ。あからさまに出ていけと言われはしなかった。しかし寝室では別の女が夫と寄り添って寝るようになり、朝夕の食卓では本妻の席にその女が座って末席に退いた彼女を召使いのように扱った。レーナは婚礼前夜に生母から受けとった安産のお守りを握りしめて商家を出奔した。結い髪がほどけるのも構わず、着衣の前がはだけたことにも気づかぬままに旅をつづけ、いつしかこの峠にたどり着いた。
レーナはそこに桃の木を植え、安産のお守りを根の下に埋めて、精魂こめて育てた。腕のような二本の枝を天にさしのべた若木を我が子のように抱き、子守歌であやし、樹皮の窪みに胸をすりつけて出ぬ乳を吸わせた。そんな思いが通じたのか、桃の木はすくすくと育ち、乳のように濃厚な果汁でいっぱいの実をつけるようになった。髪に白髪の混じる歳になったレーナはその実をもいで旅人にふるまい始めた。井戸で冷やした桃の味は格別で、苦労して山道を登ってきた誰もが感謝感激し、果実の滋味に喉を鳴らした。峠の桃は評判になり、レーナの桃と呼ばれるようになった。
異変が起きたのは数年後だった。
その日、桃の木の木陰に置かれたテーブルでレーナから果実を受けとった若い街道巡視隊員は、よほど喉が渇いていたのか、皮ごと桃の実にかぶりついた。数秒後、男は地面に這いつくばって胃の中のものをすべて戻していた。小麦色の口ひげのなかで何かが蠢いている。路上に転がった桃の実のなかで、無数の蛆虫が生の祝祭をくり広げていた。
レーナは慌てて別の実を取り、ナイフで割って虫に喰われていないことを確かめてから街道巡視隊員に差し出そうとした。しかし若者は、すでに馬にまたがって走りだしていた。
レーナは小屋からはしごを引きずり出し、すべての実を手で触って確かめた。熟れすぎてぶよぶよとしているものを片っ端からもいで捨てていった。レーナの顔にただならぬ表情が浮かんでいた。その目はこの世ではないどこかを見ていた。
どこから噂が伝わったのだろう、次の夏には誰もがレーナと視線を合わせようとせず、足早に峠をぬけるようになった。木陰のテーブルの上で蔓かごに山盛りになった桃の実は何日もそのまま放って置かれた。夏の終わりには木陰の草むらに落ちた実が峠に腐臭をただよわせた。
レーナの最期を知る者はいない。破れて穴があき、汚れきった服を着て桃を片手に峠にたち、仮面のような笑顔を旅人に向けつづけたという者も、山を下って骨拾いに身を落としたという者も、聖地への巡礼の旅に出たという者もいる。ひとつだけ確かなのは、レーナがすでにこの世にはなく、桃の木ばかりが夏空の下で若々しく葉を茂らせているということだ。
桃の木の幹には「有毒! 食用不可」という警告看板が釘付けにされている。同じ看板には読み書きのできない者のために、桃の実を食べた者が喉首を押さえて倒れる絵が描かれている。
夏の終わり、白い月マンスリープがやせ衰えて消え、代わりに緑色の禍月モールスリープが満月を迎える夜、桃の木陰で腐臭を放っている果実がいっせいに割れ、そこが口となって膿んだ果肉を吐きだす。汚穢と蛆虫の沼地と化した峠の広場で、生命を得た果実たちがいっせいにきゅうきゅうとさえずりだすのだ。
果実たちは膿汁のたまりのなかでちいさな手足をじたばたさせて、赤子のようにいっせいに泣く。
緑色の月光を浴びた果実の合唱は、よくよく聞けば人語に聞こえてくるのだという。
「お母さん、お母さん……」
桃の実はナーグリングに変異したのだ。腐敗の神、尊父ナーグルに瓜二つの目鼻立ちをしたディーモンの群れである。それが桃の木を母と慕っていっせいに泣くのだ。
どうしてその木が腐敗の神ナーグルに穢されたのだろう。心ない者がレーナを貶めるために木を穢したのか、それともレーナ本人が混沌信仰に堕ちたのか――それを確かめるすべはない。
桃の木だけが今も峠で実をつけている。