鞭打苦行のThrasher

翻訳者/ライター/最底辺労働者、待兼音二郎のブログであります

『さよなら、愛しい人』というタイトルについて

自分は元ウォーゲーマーで、ゲーマー諸氏のブログ巡回を日課としているのですが、特に楽しみにしている『F男の誰も付いていけない話』に、興味深いエントリーがありました。
http://fohpl.asablo.jp/blog/2009/05/23/4319393

レイモンド・チャンドラー作『Farewell, my Lovely』の村上春樹による新訳のタイトルについてです。

清水俊二訳の『さらば愛しき人よ』が名訳として名高いわけですが、それに対して『さよなら、愛しい人』ではあまりに薄っぺらすぎないか。さすがの清水訳も今となっては古めかしいのかもしれないが、多少臭くてもそれなりの重々しさが求められる作品はある。それを、いかにも村上春樹流の「さよなら〜」にしてしまうのはいかがなものか、という主旨。

F男さんが述べておられるのはあくまでタイトルの印象論ですし、自分にしてもどちらの訳も読んでいないので訳書としての総合的な評価はできませんが、言われてみればその通りだなとうなずきました。

宇宙戦艦ヤマトの主題歌が、♪さよなら、地球のみなさん、旅立つ船は、宇宙戦艦ヤマト――では、なんだか異星との文化交流から帰路につくみたいです。♪さらば地球よ、旅立つ船は、宇宙戦艦ヤマト――でなければ、地球を滅亡から救うためにはるかイスカンダルへと旅立つという悲壮感はでません。

自分は翻訳を仕事にしながら、最近の翻訳小説の言葉遣いには違和感を持っていたのですが、「さらば/さよなら」問題にその縮図を見る思いがしました。

確かに翻訳は原作あってのものであり、訳者が原文をねじ曲げることはあってはなりませんが、さりとて多少の雰囲気付けは必要だと考えます。Striderを「馳男」と訳したり(『指輪物語瀬田貞二訳)、Wild Hill Manを「山賤」と訳すこと(『運命の森』浅羽莢子訳)*1の是非は、評価が分かれる問題ではありますが、少なくとも自分は、「足長」や「山男」といった無難な表現で逃げる訳(ましてやカタカナ訳)よりは、瀬田・浅羽両氏の訳語選定を評価したいです。

それにつけても、最近の翻訳小説の言葉遣いは行儀が良すぎる気がするのです。自分も文芸翻訳の勉強をしてきた人間なのでわかるのですが、小説の翻訳で至上とされるのは、「作者が日本語で表現するならこう書くだろうという訳文」です。まったく正論で、反論の余地はないのですが、それを実現するための努力が、「翻訳者は個性のない黒子に徹し、癖のない正しい日本語で訳す」という方向に向かってしまっています。かくして、上品でお行儀はよいが、無個性な訳文が世に溢れています。

清水俊二訳『さらば愛しき人よ』の後釜として村上春樹訳『さよなら、愛しい人』が出てきたのも、そうした流れの延長線上にあるのではないかな、と。

ただ、清水俊二の訳は日本語としてはすばらしくても翻訳としては、はしょったり付け足したりが多く、原文への忠実さという点では現在の翻訳書の基準からみると失格だという説もありますし、訳者が黒子に徹しながらも原文の息づかいを巧みに日本語で表現しえている翻訳家もおられますし、村上春樹の訳にしても、『熊を放つ』など、村上文体と相性の良い作品の訳は自分も大好きですし、本当に一概には言えません。

しかし、自分は多少臭くても訳者の個性が前面に出た訳の方が好きですね。

最近、托鉢修道士のことを勉強しようと思って、修道士カドフェル・シリーズの一作と、『艶笑滑稽譚』というバルザックの短編集を借りたのですが、前者はいかにも最近の翻訳小説という癖のない言葉遣いで、登場人物がみな二枚目俳優のようなのですが、後者は「鐚銭」「莞爾(にっこり)」といった言葉遣いが満載で、自分的にはドツボでした。多少読みづらいですが、だんぜんこっちの方が好きです。

そのあたりについては後日、また書いてみようと思います。

*1:※090526追記 浅羽莢子といえばゲームブックファイティング・ファンタジー・シリーズの訳で有名なわけですが、浅羽氏による興味深いモンスター名の訳を、Epiktさんがブログ記事で紹介しておられます。