鞭打苦行のThrasher

翻訳者/ライター/最底辺労働者、待兼音二郎のブログであります

Catcher in the Sewer(下水道探索者たち)【その7】(最後)

その7です。最後までです。一応ネタバレをさけてここでは語らずに本文にいきます。



 ***

 ネズミ捕りクラウスは達成感につつまれていた。とうとう目的を達したのだ。
 クラウスは貧相な小男、曲がった膝とこの眇(すがめ)、への字型のまま固まったような口のせいで、人からいつも軽んじられてきた。孤児で、親の愛も知らぬ。物心ついたときには街角で空きっ腹を抱え、少しでも暖をとるために下水道にもぐることをおぼえた。その縁でネズミ捕りの親方に拾われ、見習いからこの道に一歩を踏みだした。
 やがて一人前となって独り立ちしたが、クラウスには学がなく、容姿に恵まれず、金もなく、安酒場であおるジンだけが唯一の楽しみで、給仕女にちょっかいを出そうにも気の利いたセリフひとつ口にできず、いつも酒場の片隅で背中を丸めていた。恋人も友もなく、若さだけは溢れるほどにあって、晴らせぬもやもやを抱えて日々を送っていた。
 母の顔も、腕に抱かれる温もりも知らない。知っているのは、金と引き替えに身体をひらく商売女ばかりだった。しかしどの女も醜男で口べたのクラウスには冷たく、おざなりにしか扱ってはくれなかった。屍体のように反応のない女をどれだけ強く抱き、どれほど腰を使って励んだところで、心は寒くなるばかりだった。
 ただ一度だけ、温かい思い出があった。笑顔のまぶしいあの街娼、髪に野の花を挿していたハンナという娘。言葉にアヴァーランドの訛りがあった。きけば十六歳とのことだった。
 あの日クラウスは、日銭をためた財布を握りしめて、いかがわしい街角へやってきた。しかし膝がふるえ、そこから一歩を踏み出す勇気が出せぬまま、ライク河の河岸に立ちすくんでいた。そこに優しく声をかけてきたのがハンナだった。
「おれなんかを相手にしてくれるのか。だっておれ……臭いぜ」
「あたしも臭いよ。おんなじだよ」
 ハンナが微笑むと、前歯が一本欠けていた。隙間からピンク色の舌がみえた。それがとても神々しいものにみえた。
 ハンナに手をひかれ、クラウスは河岸の階段を下りた。杭につながれた舟がベッドの代わりだった。クラウスはハンナの温もりにつつまれ、揺れる川舟のなかで生まれて初めて天国を味わった。ことが終わってからもハンナはずっと手を握っていてくれた。ライク河の川面ににじむマンスリープの白い月影を眺めながら、クラウスは誰にも語ったことのない胸の内を長々と吐露した。
 ハンナは心のこもった眼差しで、じっと聞いていてくれた。どうしてそんなに優しくしてくれるのかと訊ねると、ハンナは目を伏せてこう答えた。
「だって、あたしも優しくしてほしいから」
 その一月後、クラウスはまたあの街角に向かった。ハンナは露天で春をひさぐ最下級の街娼だった。その代価を貯めることでさえ、クラウスの稼ぎでは容易ではなかったのだ。ハンナの姿を探したが、どこにも見つからなかった。他の街娼に訊ねると、その子ならもう半月ほど見ていない。故郷に戻ったか、厄介事に巻き込まれてライク河に投げ込まれたのどちらかだろうとのことだった。クラウスの幸せな日々はあっけなく終わり、ハンナのために買い求めた花束は運河のよどんだ水を流れていった。
 それから二十年近く、クラウスの人生には何ひとついいことがなかった。日がな一日下水道にもぐり、安酒をあおって寝るだけの毎日だった。やけを起こしそうになるのを、下水道でネズミを追いつめ、しとめる興奮だけが鎮めてくれた。下水道を歩き慣れた彼には、地下の暗がりにいながら、自分が市街のどのあたりを歩いているのかが手に取るように把握できた。薄汚れたタイルのならぶ天井越しに、大通りを行きかう馬車の車輪が石畳にこすれてたてる音や、歌劇場の観衆がいっせいに息をのむ気配、旅宿の一室で女の服を脱がしていく男の動悸が聞こえてくる気がした。そんなとき、人の秘密を覗き見る奇妙な快感がじわじわと湧いてくる心地がした。
 彼が日々潜っている下水道経路のなかに、一本の脇水路があった。それは、慈悲の女神シャリアの女子修道院から流れてくるものだ。高い石塀にかこわれた修道院の汚水をひとつに集めて流れてくるのだ。修道院は男子禁制が徹底されており、用があって訪ねてきた司祭も塀の外側にある面会場で待たねばならない。つまり……この水路を流れてくるのは女のものだけなのだ。それを思うと、街で見かけたシスターたちの顔が浮かび、あやしく胸が騒いだ。脇水路の先になにがあるのか、気になって仕方がなかった。だが、いくら人目がないとはいえ、行ってはならない場所なのだと、クラウスはかたく自分を戒めていた。水路の奥から走り出てくるネズミどもを少しばかりうらやましく思いながらも、クラウスはここに来るたびに理性を奮い起こし、踵を返すのだった。
 それでも人生はみじめで耐え難く、ある日彼は、もうどうでもよくなってシャリア教女子修道院への脇水路にとうとう足を踏みいれた。
 ハンナの思い出を胸に、長年かけて心のなかでつくりあげた母の面影にハンナの顔をかさねて、なにやら口ずさみながらクラウスは脇水路をたどった。地下道の先からかすかな風が吹いていき、質の悪い手燭の獣蝋がぱちぱちと爆ぜ、火がたびたび消えそうになった。
 やがて下水道の先に白くて丸みをおびたものが浮かび上がった。それは闇のなかで神々しいまでに照り輝いていた。白い月マンスリープだろうか。クラウスは手燭を取り落とし、白い明かりだけを頼りに歩きつづけた。近づくにつれて、それがふたつの半球を下向きに重ねたようなかたちをしていることがわかった。
 そのうちに詠唱の声が聞こえてきて、大勢の信徒が天に浮かぶ白いものを崇めているさまが見えてきた。祈りの声が高まったはてに、ふたつの白い半球の隙間から、膜をかぶったなにかが産み落とされた。
 膜をやぶってあらわれた?それ?は、人間ともネズミともつかない姿形をしていた。
 クラウスは無意識のうちに信徒らに混じり、歓喜の声を上げていた。その日以来、彼の人生は永遠に変わった。

 ***

「死体に死霊術をほどこす前の宗教儀式かなにかだろうか」
 紫水晶の魔術師(アメジスト・ウィザード)イェーケンが、鉤鼻の頭に皺をよせた。
 信徒らは祈りに夢中で、探索者たちにはまったく気づいていないようだった。モール司祭ハイドリヒがうなずき、周囲を見回した。
「こっちですぜ」
 ネズミ捕りのクラウスが小声で言い、手で方向をしめした。広間の奥に舞台のようなものがあり、天鵞絨の緞帳が閉じられていた。一行は信徒たちにぶつからないように、壁にへばりつくようにして広間をすすんだ。
 見習い魔術師フーゴーは、盗賊女マルタとともに後ろからついていった。
 クラウスが緞帳の隙間をわずかにひろげ、一行を奥の間に請じ入れた。
 部屋の中心に花崗岩の巨大な寝台が据えられ、臨月の妊婦がはちきれそうな下腹をさらしてうなっていた。
 頭巾つきの長衣に全身をすっぽりつつんだ聖職者たちが、分娩台を囲んでいた。いずれもくね曲がった杖をにぎっているが、以前にみた女呪術師のものとは違って杖はつややかに磨き抜かれ、てっぺんに水晶玉がはめ込んであった。
 クラウスが聖職者たちに目配せをすると、全員がいっせいに懐から短剣をぬき、刃を天井にむけた。
 短剣はどれも反り身で、根本にぎざぎざの段がつけられていた。
「われら〈黄色い牙〉、事の成就はまもなくだ」
 全員が唱和した。頭巾のなかでひらかれた口には、左右の門歯が欠けていた。
 フーゴーは呆然と眺めていたが、気づけば短剣をにぎった聖職者に胸を刺し貫かれていた。
 となりでマルタが、同じく胸を刺されていた。
 フーゴーとマルタは背中合わせに縛られ、天井の鉤からロープで吊された。ふたりの出血が混じり合い、ぽたぽたと床に垂れた。
「男も女も、見目よき相手と近づきになれば、まぐわうことしか考えておらぬ。さかりのついた猫のごときやつらにふさわしい仕打ちだ!」
 クラウスが快哉を叫び、聖職者たちが同意の声をあげた。
 ハイドリヒとイェーケンも縛られ、床に引き据えられていた。
 フーゴーは遠ざかりゆく意識のなかで室内を見回した。奥の壁はきらびやかな祭壇になっていた。金銀宝石が惜しみなく使われ、豪奢な輝きを放っている。祭壇の中央に黄金でできた巨大なネズミの像があった。?角ありし鼠?という言葉がどうしてだか浮かんできた。
「お生まれなさる。お生まれなさるぅ」
 聖職者たちが唱和しはじめた。クラウスもそれに声を合わせた。
 茫然自失のハイドリヒとイェーケンに、クラウスはつかつかと歩みより、勝ち誇った口調でこういった。
「おまえらふたりには使いでがある。自分が何者かもわからなくなるまで洗脳して、うちの教団で使ってやるわい」
 クラウスは肩越しにふり返り、天井から吊されたフーゴーとマルタに顎をしゃくった。
「あいつらはグレイシーアさまたちの晩飯だな。段の下に吊してあった屍体と同じくらいの香りを放つまで熟成させてからだが」
 そうか、そうだったのか……フーゴーは心でつぶやいた。しかし、もはやなにもかも手遅れだ。意識がどんどん遠のいていった。
 誰かがフーゴーの手を握った。マルタだ。フーゴーは力のかぎりに握りかえした。いつまで握っていられるのだろう。だが、今の彼にはマルタの手の感触だけが現世と自分をつなぐものだった。まもなく自分はモールの国へ旅立つ。マルタが一緒なのがせめてもの救いだ。
 いや、はたしてマルタはモールの国に迎え入れてもらえるのだろうか。それは自分にも言えることだ。ばかな、自分を信じろ。そんなことを考えるうちに、マルタの手がするりとぬけた。
「お生まれなさる。お生まれなさるぅ」
 聖職者たちの唱和が狂騒の気をおびてきた。妊婦は額に玉の汗をうかべ、丸めた布を噛みしめた。
 クラウスはあの日とおなじく白いふたつの半球を眺めながら、恍惚の境地を味わっていた。やがて半球の隙間が広がり、膜につつまれたものが産みだされた。
 胎児を手に取ったクラウスは、それを神々しいものであるように掲げた。お生まれなさった。お生まれなさった。彼はその子を、グレイシーアたちの待つ場所へと抱えていった。