鞭打苦行のThrasher

翻訳者/ライター/最底辺労働者、待兼音二郎のブログであります

『H・P・ラヴクラフト大事典』が刊行されました

 報告が遅れましたが、表題の書籍が翻訳出版されました。『アウトサイダー』からワラケアまで、本文約440ページ、索引や作品リストも含めれば500ページ近くに及ぶ圧巻の大著です。膨大な項目のうち一部の翻訳を、戦鎚傭兵団(岡和田晃待兼音二郎・東浜秀明・鈴木康次郎)にて担当しました。
 書籍タイトルからも明らかなような、これはH・P・ラヴクラフト(以下、HPLと略記)とその著述活動に内容を絞り込んだ事典です。クトゥルークトゥルフ)神話体系とその神話生物についての言及はごく少なく、独立した項目になっているものもほとんどありません。
 それがなぜかは、日本語版監修者・森瀬繚氏による序文を読めば明らかです。現著者のひとり(ディヴィッド・E・シュルツとの共著)であるS・T・ヨシの興味はあくまでも「20世紀前半の北米アマチュア・ジャーナリズムの中心的人物であった怪奇小説家」としてのHPLにあり、主としてその死後に後付けで成立したクトゥルー神話についてはほとんど「一顧だにしていない」からです。

 彼のそうしたスタンスは、とりあけオーガスト・W・ダーレスとその仕事についての否定的な記述の数々に現れている。

 とのことですが、いかにS・T・ヨシがダーレスを嫌っているかは、実際の翻訳作業で彼についての言及があるたびに原文から匂うように伝わってきて、苦笑させられたことを懐かしく思い出します。
 クトゥルー神話をめぐる諸作品はコミック、映像作品、ゲームも含めて一大勢力圏をホラーの分野に築き上げているわけですが、言うなれば本書は、その広大な世界の中心部のみを研究者S・T・ヨシが高い城壁で囲い、生身のHPLとその諸作品、および彼を取り巻く人々によって織り成されるひとつの濃厚な世界を、HPLその人が現実に生きた時代を、雑音的な背景を意図的に遮断して照らし出した作品だといえるかもしれません。

 という自分の勝手な思い込みはさておき、まあぶっちゃけ、あれもこれも書こうとすればページがいくらあっても足りないわけで、クトゥルー神話も含めてHPL関係のすべてを網羅しようとすれば本書のサイズで上中下巻セット、しめてお値段1万円以上なんてことになってしまいかねないので、選択と集中はやはり必要なのであります。

 しかも幸いに、クトゥルー神話関係であれば『エンサイクロペディア・クトゥルフ』という優れた訳書がすでに存在しています。
 こちらは本書と同じサイズ(A5判にあたるのか?)で、ページ数が340頁ほどと3割くらい薄く、逆にクトゥルー神話とその構成要素に選択と集中が行われた事典です。本書とセットで揃えるのに最適です。
 より手頃な事典であれば、学研M文庫の『クトゥルー神話事典』がお勧めです。こちらは文庫本450ページほどの分量に用語事典、作品案内、作家名鑑、歴史年表がバランスよく詰め込まれ、写真や挿絵も豊富で、HPLクトゥルー神話関係のことがまんべんなく項目として立てられていて、座右においてちょくちょく手をのばしてぱらぱら調べるにはこれ以上なく適した本です。

 その『クトゥルー神話事典』と本書『H・P・ラヴクラフト大事典』との違いはというと、何といっても個々の項目における記述の深さです。
 たとえば「未知なるカダスを夢に求めて」ですと、あちらの記述は1ページ半ほどですが、こちらでは6ページちょっとにもなります。文庫とA5判?というサイズの違いもあるので、実際の文字量でいえば4倍どころではないでしょうね。他にも「アウトサイダー」が0.5頁:3.5頁、「クトゥルーの呼び声」が1.5頁:4.5頁など、ある程度ばらつきはあるものの、総じてこちらが圧倒しています。

 また、これは冒頭の序文にも書かれていることですが、アマチュア時代のHPLの活動にも多くの紙幅が割かれていることが本書の特徴です。たとえば、「ラヴクラフトの書簡」という項目はじつに5頁半にも及んでいますし、「ラヴクラフトの筆名」も4頁半に及んでいます。そのあたりは翻訳を担当したのでよく覚えているのですが、HPLがKleicomoloやGallomoという文通同人グループに参加していて、参加者のひとりが手紙の写しを欲しがったので全員がカーボンコピーを同封するようになったのだとか、IT時代の今からみれば隔世の感のある記述があったりして興味深いです。

 ところで、こうして本になったなったものを感慨深く手に取ってページを繰っていると、監訳者の雨宮伊都さんがずいぶん手を入れてくださったことが実感でき、恐縮しきりです。単純な英文の誤読(すいません)から、作品とその背景を知らないと記述の意図がつかみづらかった部分の明確化に至るまで、かなり磨き上げていただきました。お手間をおかけしてしまい申し訳なく思うとともに、自分ももっともっと鍛錬せねばと痛感するばかりです。

 くわえて、本書には要所要所に訳注が入れられていて、単なる全訳書に留まらない完成度に仕上がっています。こちらは監修者の森瀬繚さんの手になるのでしょうか。たとえば「インスマス」の項目にある、初めて言及された時にはイングランドの都市ということになっていた。という記述に関して、以下の訳注がつけられています。

 正確には、「セレファイス」の舞台がイングランドであることから、作中の都市インスマスもまたイングランドにあると推定される。その所在が明記されたわけではない。

 何やら、オレがオレが式で突っ走りぎみのヨシ氏に、冷静な相方がツッコミを入れる図が浮かんできて、訳注を拾い読みするのもけっこう面白かったりします。

H・P・ラヴクラフト大事典

H・P・ラヴクラフト大事典

エンサイクロペディア・クトゥルフ

エンサイクロペディア・クトゥルフ

クトゥルー神話事典 (学研M文庫)

クトゥルー神話事典 (学研M文庫)

 最後に、これはまったく個人的な嗜好に関することですが、このサイズの大著となると、あちこちへ持ち歩くことに困難を感じます。せっかく電子出版の基盤が整いつつあるので、これからの時代、本は電子で出して欲しいものです。
 刷り立てのインクの香りや、紙の装幀ならではの美しさといった価値にもたしかに魅力は感じます。休日に紅茶とビスケットをお供に、紙の手触りを楽しみつつゆっくりと書物を読みすすめるのは至上の幸福であるのかもしれません。
 しかし自分に関する限りでは、読書を楽しむ幸福な時間の記憶というものは、読書フォーマットよりもむしろ読んだ場所に関連づけられて残るものです。
 自分がいちばん好きなのは、青春18きっぷで鈍行列車にえんえん揺られながら本を読むことです。そうして読んだ本の記憶は、章の合間に顔を上げて車窓越しに見た知らない街の踏切であるとか、乗換駅で缶コーヒーを飲みながら内容を思い返したひとときであるとか、そうした旅の一シーンと結びついて独自の読書体験になります。
 その際に読むのが紙の本か電子書籍かというフォーマットの違いを自分は問題にせず、むしろ物理的な容量を気にします。重くてかさばる紙の本は持ち運ぶことを躊躇ってしまいますが、電子書籍ならいくらでも持ち運べます。また、旅行という大げさなことではなく、日々の通勤でも、電子書籍なら本書くらいの大著でもサイズを気にせずに読むことができます。などなど、最後は完全に別の話題になってしまいましたね。